A:『東京都同情塔』を途中まで読んで、「ホモ・ミゼラビリス」の理念に惹かれた。全部は読んでいない。
B:だれでもいいから論破したい。
A:『東京都同情塔』では、犯罪者は劣悪な境遇から生まれるものだとした。
例えば、若くして望まない妊娠をした女性は、子供を育てるために窃盗に手を染めるしか手がないかもしれない。また、家庭内暴力を日常的に振るわれてきた子供は、人との適切な接し方が分からずに他人に暴力をふるうことを厭わないかもしれない。
犯罪を行ったことがない人というのは、ただ単に境遇に恵まれたに過ぎない。そのような人々のことを、境遇に恵まれなかった「同情するべき人々」という意味の「ホモ・ミゼラビリス」と呼ぶのはどうかな。
B:犯罪者の中には確かに、そういった苦しい現実を生きてきた人間がいるかもしれないね。でも、全ての犯罪者を「ホモ・ミゼラビリス」と呼ぶのは結局、呼称表現を変えただけで根本的な解決にはなっていないんじゃないかな?
A:東京タワーはかつて、「昭和塔」という名前になる案もあったそうだよ。でも、「昭和塔」だと、かなり古臭い印象を持たない?名前を変えることでそれ自体の見られ方が変わることもあるよ。
B:もしそうだとしても、「犯罪者」を「同情するべき人々」と括るのは、的を射ていない表現だと思うよ。確かに犯罪者の中には同情されるような人生を送ってきた人間も多くいるのかもしれない。でも、全ての犯罪者がそうではないよね。恵まれている立場でも、性的な快楽を享受するために女性を襲う男性や、スリルを求めるために違法な賭け事をする人間もいるよ。そういう人間を全て「同情するべき人々」とするのは、本質とかけ離れているんじゃないかな。
A:そうかもしれない。じゃあ、悲惨な境遇を持つ人間だけを「ホモ・ミゼラビリス」と呼ぶのはどうかな?犯罪者とホモ・ミゼラビリスを区別することで、悲惨な境遇を持つホモ・ミゼラビリスが社会に受け入れられる土壌を作ることができるんじゃないかな。
B:「犯罪者」と「ホモ・ミゼラビリス」の区別はどのようにするの?
A:うーん...画一的に決めるのは難しいね。自分が犯罪者だと開示する必要がある場面は少ないわけだし、会社の面接など、自分の経歴を開示する必要がある場合に面接官などの責任のある立場の人に判断してもらうのはどうかな?
B:それだと、ことあるごとに自分の境遇を他者に開示しなければならないね。見ず知らずの他者に自分の知られたくない側面を知られるのは、自分が社会に受け入れられるためとはいえ、嫌に思う人も多いと思うよ。
A:じゃあ、司法に判断してもらうのはどうかな?今でも情状酌量の余地はあるし、同情に値すると公的な機関で判断されれば、社会復帰もしやすいんじゃないかな?
B:たしかにそうだね。他にも、そもそも社会全体という観点で見た時に、犯罪をしたことがある人間という危険因子をどう扱うかとかいう問題もあるけど、飽きたからこれで終わります