20231122 穏やかな賞賛欲求

正直、成り上りたいみたいな欲求自分にほとんどないかも。
Xで1万フォロワーほしいとか自分の絵を全世界に見てほしいとか,それを目標にすることはあっても,それ自体が真の目的になることはないかも。
絵とかゲームとかは自分が良いと思ったものを作って,俺スゲーってなるためにやってる部分が大きい。
それで「なんか,あいつ色々できるらしい」みたいな輪郭をなでたようなフワッとした賞賛があれば自分の人生はそれで幸せかもしれない。
 
前,友達とおいしさの閾値について話したことがあった。
100おいしいものを食べても,70おいしいものを食べても,俺たちは70までのおいしさを感じる受容体しかもっていないから,どちらを食べても「美味しかった~」としか感じない。
これは不幸なことではないと思う。
もちろん色んなものを食べておいしさのパラメータを細分化し,味覚を表現する幅が増えるのは良いことであるが,80のおいしさに慣れてしまって70のおいしさを純粋に感じることができなくなってしまったらもったいないとも思う。
 
おいしさに関してはパラメータを増やしたいとは思っているのだが,こと幸せに関しては今の価値観のままが一番幸せに近いと思っている。
だからほどほどに評価されて生きていきたい。
 
最近の子供は,学校という狭い箱の中でトップになる経験を得る前にインターネットで同世代のトップを目の当たりにしなければいけないから可哀そうだと思う。
自分のこの考え方もそういった一種の諦念から来たものなのかもしれない。